茉 優 mayu

感じるままに。まっすぐに。愛を。 ▷ https://mayu0706.mystr…

茉 優 mayu

感じるままに。まっすぐに。愛を。 ▷ https://mayu0706.mystrikingly.com

マガジン

  • まゆ自叙伝

    わたしが生まれてから大学を辞めて宿をやるまでを自叙伝にまとめます

  • ❤︎

    見つけてくれて、ありがとう。

最近の記事

自叙伝Kindleを出版しました。

生きててずっと、 文字を書くってことはしてきた。 このnoteといい、はてなブログといい。 でも、とあるまゆを見つけた人が 提案してくれた。 『まゆさんの生き方をもっと多くの人に知ってほしいから本を出そう』って。 そう声をかけてもらってから3年。 ようやく出版に至りました。 この世界は、 どんな世界かは 本人が決めている。 その人の物の見方や解釈により 感情が生まれて、記憶ができる。 この自叙伝は、 誰にどう見えていようと 誰がなんと言おうと ここに綴られているも

    • 愛せないことは苦しい。けれど、愛するが故の苦しみは愛おしい。

      2年越しに見れた映画 この映画は2年から知っていた。 いつだったか見ようと思ってたんだけど、前回見ようとしたときは、最初の10分くらいで見るのをやめてしまった。 見終えた今思えば あの時の自分は この映画から溢れる 純粋な愛のエネルギーを 受け止めきれる器がなかったんだと思う。 だからある意味、拒否反応みたいなね。 でも今日ふと、『見たい』と思った。 傷つくことを恐れて 愛することから逃げて エゴに支配されて 自分のほしい愛を求めて なにしてんだ、ってなってた自分

      • (25)ピースボート〈地球一周の船〉で働いて思うこと

        人生の運命とは「たまたま」という名の必然が運んでくるわたしが東京に残ることになった最も大きな理由は【ピースボートで働くことになったこと】である。 ピースボートとはあのよく居酒屋のトイレで見るポスターのやつ。まゆが21歳の時に南半球を一周するのに乗ったやつ。そこで今はスタッフとして働いている。 まゆの職場では過去何年もの歴代ポスターたちが壁一面に貼られている。 ここで働くことになったきっかけはなんと、マッチングアプリ。 当時お付き合いしてた人とお別れして、付き合ってる時には

        • (24)思いがけず2年が経とうとしている東京での人生

          横須賀生活宿を手放し、自分が住んでた家を手放し、『はて、明日からの人生どこでなにしてこっかなー、どこで生きてこうかなー』となり、とりあえず今のその自分の状況をSNSでオープンにした。そしたら日本各地いろんな人たちがタダで住んでいいよって言ってくれて。その中からまゆは横須賀で画家をしながら生きているお友達のおうちにお邪魔することにした。このとき、正直な自分を出している限り人間は死ぬことはないのだな、と確信した。自分をオープンにしている限り、必ず手を差し出してくれる人がいる。生か

        自叙伝Kindleを出版しました。

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        • まゆ自叙伝
          25本
        • ❤︎
          10本

        記事

          (23)すべてを手放してまっさらな自分へ。

          宿やってた家を手放すと決め、群馬を去る 4年間ものパートナーシップが終わったことをきっかけに自分でやっていた宿を終わらせることにした。 付き合っていたパートナーと一緒に住みながら宿として使っていた、9LDKの離れ・庭付きのおうち。 パートナー関係を解消することに決まった時、一瞬は考えた。 ひとりでこのまま、 この群馬という土地で この9LDKの物件で 自分の生業を続けていくのか、辞めるのか。 せっかくおうち借りてるし せっかく大家さんともいい関係性を築けてるし せっ

          (23)すべてを手放してまっさらな自分へ。

          (22)岐阜と群馬でやった〈リトリートハウス〉という宿

          リトリートハウスという宿 日本中を車中泊旅した結果、岐阜の森が気に入ったので次は岐阜県内中を車中泊旅して、空き家探しの旅をし、無事に出会えたおうちで「リトリートハウス」という宿をやった。 リトリートハウスとは、 普段いる日常から離れて(retreat)疲れをとったり、自分と向き合ったり、自然の中で過ごしたり、からだに優しい自然なごはんを食べたり、ヨガや瞑想をしたりと、自分を癒し、休ませる(treatment)ために泊まりに来る宿だ。 リトリートツアーとかはよくある。

          (22)岐阜と群馬でやった〈リトリートハウス〉という宿

          (21)湧水を汲んで野草を摘みながら、日本中を車中泊旅した話

          自分に合う森を見つけるための車中泊旅 インドから帰ってきてからは、いよいよ生業として自分の拠点を持とうと思い、自分に合う森・土地が知りたくて日本中を車中泊旅した。 まゆは自然の中で生き生きする。 芝生や自然の中でピクニックするのが好きだし、野草も摘みたいし、森でぼーっとするのも好きだし、川で泳ぐのも好きだから、それを泊まりにきたひとと共に分かち合える宿がよかった。だから森や自然がすぐ近くにある拠点を持ちたかった。 でも自然がすぐ近くにあるのはだいたい地方で、地方にはだい

          (21)湧水を汲んで野草を摘みながら、日本中を車中泊旅した話

          (20)タイとインド、1年半の瞑想生活

          タイ大学を辞めて、まず最初に行った日本の千葉にあるヴィパッサナー瞑想センターで出会ったイスラエル人の男性がタイのバンコクに住んでいて、部屋も余っているし遊びにおいでよと言ってくれたので、人生ノープランだったわたしは誘われたままにタイに行くことにした。 タイはバンコク、チェンマイ、パーイに行った。バンコクのイスラエル人の友達の家にはメイドの女の子がいて毎日フムスを使ったイスラエル料理を作っていた。 チェンマイでは、チェンマイに在住しながらアースハウスや綿の栽培から衣服をつく

          (20)タイとインド、1年半の瞑想生活

          (19) 父編。縁を切ってから赦せてハグができるまで。

          縁を切った日。 前回の記事にあるように お母さんからはあまり愛情を感じてこれなかったけど、 お父さんはまゆのことが大好きなのが伝わっていた。小さなころからわかっていた。 だけどわたしはそんなお父さんと縁を切ったことがある。 わたしが2歳の時に親は離婚したけど、その後もお父さんとは幼稚園から高校生まで定期的に会ってご飯に行ったりしていた。 いつもお父さんは、まゆが小さかった頃の話を嬉しそうにしてくれた。それがまゆも嬉しかった。 だけど、お父さんは、必ずと言っていいほど

          (19) 父編。縁を切ってから赦せてハグができるまで。

          (18)家族への革命。史上最高を更新し続ける愛。母編。

          「愛されてなかった」というとんだ勘違いに気がついた 大学を辞め まずヴィパッサナー瞑想合宿に行き そのあと当時のパートナーと共に インドへ半年行くことに決めた。 インドは何があるかわからないし 無事に日本に生きて帰れるとも限らないしなと思い、インド前に新潟に行き、家族に会いに行った。 そしてこの時の帰省で、 わたしは自分の中の「とんだ勘違い」を改めて、そして心から、実感した。それはお母さんとわたしの関係。 結論から言うと、様々な状況の中でお母さんからのわたしへの愛はずー

          (18)家族への革命。史上最高を更新し続ける愛。母編。

          (17)大学中退直後に行ったヴィパッサナー瞑想合宿

          渇望の嵐だった10日間 自給自足の家族とともに生活していると出会うすてきな人たち皆がヴィッパサナー瞑想経験者だったこと、当時付き合っていたパートナーが10日間の瞑想合宿で人生が変わるような経験をしているのを目の当たりにしたこともあり、わたしは大学を辞めてまず最初に瞑想合宿に参加することにした。 ヴィパッサナー瞑想というのは世界中にセンターがあって、日本だと千葉と京都にある。 10日間コースというものがあり、コースが始まる前に、ケータイを預け、人と一切喋らずに、目も合わせ

          (17)大学中退直後に行ったヴィパッサナー瞑想合宿

          (16) 爆発を気に大学中退を決める

          ピースボートから降りて、 自分の価値観がひっくり返ったくらいな、 180度人生観が変わるような経験を経たのちに 復学していたわたしは、 びっくりするくらいに大学の授業がつまんなくなっていた。 大学の講義室に溢れる、教授の一方通行な授業、 他学生の居眠りやケータイをいじっているなどの無気力なエネルギーが溢れる空間の中にいることで、わたしの生命がどんどん蝕まれていっているような感覚があった。 休学している間、どんどん足を動かし、 自分の目で、自分の肌で、生きた学びを吸収してい

          (16) 爆発を気に大学中退を決める

          (15) 何者でもない「わたし」を生きる怖さと覚悟

          何にも属さないただの自分 大学を辞める時に気がついたことがある。 それはわたしたちは生まれてからずっと レールに敷かれた人生を歩んでいる限り、 必ず何かしらに所属してるということ。 保育園や幼稚園 小学校 中学校 高校 大学 企業・会社 何にも属さないのは 赤ちゃんと定年後だけなのだ。 これまで小中高大と、ずっと何かに所属していたわたしが初めて、何にも所属していない「ただの小林茉優」になる。学生でもない、職場があるわけでもない。そのことは小学生以降22年間生きてきて、1

          (15) 何者でもない「わたし」を生きる怖さと覚悟

          (14)マンデラさんから学んだ、ひとを赦すこと、愛すること。

          わたしが心の底から尊敬している人間のひとりが、ネルソンマンデラさん。 元南アフリカ大統領で公民権活動家のネルソン・マンデラは、平等を求める闘いに生涯をささげ、南アフリカの人種隔離政策、アパルトヘイトの終焉に貢献し1993年にノーベル平和賞を受賞した。生涯をかけて終わりなき人種差別との闘い続け、世界一有名な政治犯から南アフリカ初の黒人大統領となった。 ピースボートでは、アパルトヘイト時代に、黒人居住区とされていたソウェトという地域にホームステイをしたり、ソウェト蜂起が起きた

          (14)マンデラさんから学んだ、ひとを赦すこと、愛すること。

          (13)「人生を愛する」の意味を知った日

          死ぬまでに必ず行くと決めていたウユニ塩湖。南米の最南端のウシュアイアという国で、ピースボートを一時離脱し、陸路にて女友達と2人でバックパックで南米を旅した。 アタカマ砂漠から2泊3日かけてウユニへ。 その道中、見たこともない自然を 涙が出るほどの絶景をたくさん見た。 生きててよかったと、 自分が自分でよかったと、 地球と自然にありがとうと、 心から思った。 有無を言わさず 無条件に 生命を全肯定してくれる、 壮大で偉大な自然のパワーを知った。 そして、 私なりの『人生

          (13)「人生を愛する」の意味を知った日

          (12)大切なのは外側に向いているまなざしを内側に向けることだった。

          「何か」や「誰か」の犠牲の上に成り立っているシステム そうして、ピースボートにのり南半球をまわってきて世界の光と影を知り、「どうにかしたい世界」を作り上げてるのは、自分たち先進国なんだと知り、なにが国際協力だよ、なにが貧困、格差をなくしたいだよって、そう自分に思った。 全て根っこには先進国の存在があって、日本に生まれ落ちた自分にもそのシステムに加担した暮らしがそこら中に散りばめられていることに、実際に南半球をまわりながら、気がついた。 自分たちの生活が一体どんなところから

          (12)大切なのは外側に向いているまなざしを内側に向けることだった。