保坂耕司BLOGooooo

保坂耕司BLOGoooooだよ。保坂学と共に保坂兄弟のいく様々な苦難困難を乗り越える人生ブログ。伝説シリーズとして始まった保坂兄弟列伝にも目が離せません。株式会社PLUSの立場を超えた2人が向かう壮大な物語。

保坂耕司と保坂学が送る兄弟の日常や仕事の事など自由気ままに書いていきます。

T-BOLAN2

1990年に結成された「T-BOLAN」のご紹介です。
1987年に前身となる「プリズナー」というバンドを青木和義が森友嵐士を誘って結成しています。
結成した年にビーイング主催のBADオーディションでグランプリを受賞しています。
T-BOLAN3
これを機にビーイングのインディーズレーベルから「BOLAN」となり、I WAITED FOR A TIME」をリリースしています。ライブを中心に活動をしており、年間100本以上もされていたそうです。実際は定かではありませんが。。3日4日に一度のライブは実際できたのでしょうか。。
そんな中ボーカルでフロントマンだった森友氏は音楽性の違いを感じて脱退してしまいます。
森友氏はその後、様々なバンドを掛け持ちながら現在のメンバーに出会っていき「T-BOLAN」が結成する事になります。

T-BOLANのメンバー

T-BOLAN4

作詞作曲編曲は森友氏と五味氏によるものが多く、上野氏と青木氏は編曲も担当。
全てに携わっていた森友氏がメインとなっていたようです。

T-BOLANお勧め楽曲

T-BOLAN-By For Now

代表的な楽曲は「離したくはない」などは二枚目のシングルですが、1991年12月18日にリリースされて以降11ヶ月連続でオリコンチャート100位以内のロングヒットで50万枚のセールスを記録しています。カラオケでも良く歌っている方が多いですよね。

T-BOLAN1
ビーイング系のミュージシャンは当時の流行かのように目にするようになっていきました。長戸大幸プロデューサーの手によって「ZARD」や「WANDS」や「DEEN」など90年代邦楽シーンに重要な役割を果たした敏腕プロデューサーです。
今回紹介したいT-BOLANの好きな曲は「Bye For Now」になります。
離したくはないも良いのですが、前向きな感じの別れの歌のBye For Nowの方がグッときました。
そんな彼らの歴史を深掘りしたい方はウィキペディアをお勧め致します。


※YouTube by Princess Hikaru DEATH

オフィシャルサイトリンク↓
T-BOLAN-officialsite




cocco1


保坂耕司のお勧め邦楽ミュージシャン。
本日は「Cocco」のご紹介です。
シンガーソングライターという肩書だけではなく、coccoさんは小説やエッセイストなどの一面もあるようですね。
もちろん今でも活動を続けていますが、一度2001年に活動休止を宣言し、2004年に活動を再開。
再開は「SINGER SONGER」を結成しての再開です。

SINGER SONGERはくるりとCoccoのメンバーを中心に構成されたバンドですね。
ちゃんとした活動は1年間ほどだったようです。
合わせてcoccoとしての活動も再開しており、2006年には5年ぶりとなるシングル「音速パンチ」をリリースしました。
2007年9月15日にリリースされた「ジュゴンの見える丘」は個人的に好きです。
PVも和む感じで素敵です。
しかし、本日は珍しい貴重な映像をご紹介していきます。
タイトルの通りインディーズから活動を開始しているcoccoは当時「Cocko」という名前で活動していました。



※YouTube by worksmoon


Coccoオフィシャルサイト
cocco オフィシャルサイト


coccoのYouTubeチャンネル
cocco_youtube

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保坂耕司がいく渋谷の裏道街道。
保坂兄弟列伝のお散歩シリーズ番外編です。
10月半ばの渋谷の様子をご案内していきます。
本日はハロウィンという事で凄い盛り上がりになっているのでしょうね。
緊急事態宣言を解除した事もあり、
コロナの影響がなく盛り上がっているのではと言われていますね。
怖くていけません。
何故外国の宗教的な文化でお祭り騒ぎをしているのか意味不明ですが。。
日本は仏教と神道の国。
クリスマスもですが、キリスト教とは無関係の人々も一緒に盛り上がってしまうのは、いつからなんでしょうか。バレンタインの文化を生み出したように商業的なきっかけなのでしょうけど。
まぁお祭り好きの日本人にとっては色々なイベントで楽しんじゃうっていう気質は好きですけどね!

10月半ばは17時前頃という事もあったのか思ったよりも人が少なかった印象です。
もちろんたくさんいるのですが、道いっぱいに人がいる訳ではないと感じました。
ん〜、多いと言えば多いのですが。

そんな渋谷の道玄坂の横にある渋谷駅井の頭口の方へ抜ける裏道を歩いた時の映像をご紹介致します。






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裸のラリーズ1



本日わたくし保坂耕司がお勧めする邦楽ロックは「裸のラリーズ」別名「Les Rallizes Dénudés」です。
株式会社PLUSの世田谷ハウスより保坂学も興味津々の伝説のロックバンドをご紹介。
彼らは1967年からご活躍されていたバンドです。知らない方の方が多いかもしれませんね。
日本ロック史最大の謎とも評されています。
各地のフェスなどでもライブ活動を行なってきていました。
しかし彼らは謎に包まれていることが多い、アンダーグラウンドなバンドといえるでしょう。
裸のラリーズ2

バンド名の由来はモップスの公演が京都会館で開催されるときに、視察しに行こうとなり京都の夜の街を睡眠薬の飲んで徘徊。ラリってハイになった状態で「俺たちはラリーズだ!」との笑い話になり、ラリーズだけだと物足りないから裸の(生の自分、虚勢なしの素っ裸)を付けようとなったエピソードがあるそうです。名前の付け方もまた格好つけてないありのままでロックを感じますよね。
学生時代の1967年11月に水谷孝(Vo/Gt)、中村武志(Gt)、若林盛亮(Ba)、加藤隆史(Dr)の4人が結成で結成。あのよど号ハイジャック事件に加わり北朝鮮へ亡命した若林盛亮が初期メンバーだったことには驚きです。
結成当初から日本語を大事にしていたそうで、日本語でオリジナルをやりたいと意気込んでいたそうです。
彼らの独特な雰囲気はこうした水谷氏のこだわりが成せる領域となっていったのでしょう。
メンバーチェンジを繰り返しながら活動を続けていた1969年頃は、やがてメンバーは離れ水谷氏ひとりとなってしまう。
結成時から70年代頃まで京都で活動をしていた。同志社大学の学生だった水野氏は大学の軽音同好会でレコーディングなどを行なっていたそうです。それから福生、立川などでライブ活動を行なっている。
裸のラリーズ

なかなか時代背景と共に、凄まじいバンドということがわかります。
しかし、メディアなど露出が少なかったこともあり、神秘的な印象が漂ったのではと思われます。
リリース作品は数作品とされ、活動的とは言えないにもかかわらず国内外に熱狂的なファンがおり、現代においても彼らを知るコアなファンがたくさんいることだろう。

そんな彼らの貴重なLIVE映像があるが、あまり綺麗な映像は残っていないようだ。

YouTube by hikarinokeshiki


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キャロル2


保坂耕司がお勧めする70sロックアーティスト「CAROL(キャロル)」をご紹介させて頂きます。
やはり今を生きる伝説矢沢永吉こと永ちゃんは凄いですよね!
キャロルは1972年に結成され1975年に解散しています。
もっと活動して欲しかったと解散時は熱狂的なファンが多く残念に思われた事と思います。
始まりはトランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を握りしめ夜行列車にて上京を目指します。
しかし、途中で尻が痛くなったのとビートルズと同じ港町であると理由で横浜で下車されたそうです。この時点でロックを感じますよね。
横浜のチャイナタウンや喫茶タクトというお店でアルバイトをしながらバンド活動をスタートさせていきます。
キャロルの前には、「ザ・ベース」「イーセット」「ヤマト」とバンドを結成していた。
しかし、色々な事情によってうまくいかず、川崎駅近くのイトウ楽器店で張り紙でメンバー募集!
張り紙「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」だったそうです。
そこでジョニー大倉氏、内海利勝、ユウ岡崎と出会う事になります。
ジョニー大倉氏がクリスマス・キャロルからインスピレーションを受け「キャロル」と命名。
ジョニー大倉氏がバンドのコンセプトや方向性に影響を与えていたそうでして、革ジャンにリーゼントスタイルとなっていきます。矢沢氏も前身の「ヤマト」時代から同様の考えだったそうなので、意見が一致したといったところなのかもしれませんね。

キャロル
デビューのきっかけとなったのは、フジテレビの「リブ・ヤング」という番組へハガキをジョニー氏が送ったが断られた。しかし腹を立てた矢沢氏がリブヤング担当者へ電話をし何度もデモテープを送り続け出演が決まる。そこから内田裕也の目にとまり、さらに番組をみていたミッキー・カーチスの目に留まる。
結局ミッキー・カーチス氏を選ぶ事になり、デビューをはたす事になります。
ここから怒涛のシングルリリース。
1970年代のロックシーンを一気に作り上げていく。
ビートルズに影響を大きく受けていた音楽性と60年代の日本のロックから大衆にも受け入れられやすいビートと人を引きつけビジュアルやセンスは、古きオールディーズ要素を70年代ロックスタイルへと進化させたような新しい風を吹き込んだ。
そして、矢沢氏とジョニー氏の手によって日本語と英語が融合する歌詞が出来上がっていく。
これは今日に至るまでの日本音楽シーンに多大な影響を与え続ける事になるスタートといえるだろう。

ちょっと語り尽くせない歴史が深い彼らの深掘りはウィキペディアをご参照ください。


1973年4月25日にリリースしたA面「彼女は彼のもの」
本日ご紹介する楽曲はそのB面に収録された「憎いあの娘」です。

キャロル-彼女は彼のもの_憎いあの娘
自分的にはこれが一番好き。
矢沢永吉氏のベースがまた良いんです。3ピースなのもまた良い味出てます。



YouTube by 竹庵藪井



柳ジョージ&レイニーウッド_page-0001

保坂耕司です。
本日は保坂学も大好きなアーティストのご紹介です。
株式会社PLUSのスタッフも好きですね。保坂兄弟共々柳ジョージを認めているといったところでしょうか。
いやー、柳ジョージ&レイニーウッド を紹介する日がきましたね。
大好きな70年〜80年代のミュージシャンの一人です。
髭が濃いっす。

柳ジョージ&レイニーウッド2_page-0001
今の人たちは知らないでしょうね〜。
ハスキーボイスがたまらないです。
あの桑田佳祐も影響を受けたと言われています。
確かにそのエピソードを感じてしまう曲調や声などの質感がありますよね。
今回ご紹介する楽曲「雨に泣いている」もブルースロック感がありますね。
結成は1975年で1977年に1stシングル「祭ばやしが聞こえる」のテーマをリリースしています。
1stアルバムは1978年「Time in Changes」を2月にリリースし、同年7月には「WEEPING IN THE RAIN」を立て続けにリリースしていきます。これがテレビドラマ「死人狩り」に採用されて大ブレークとなるんですね!

柳ジョージ&レイニーウッド_雨に泣いている_page-0001
そこから年に3〜4曲ほどを出し続けていきますが、1981年に解散を迎えてしまうんですね。
最後は武道館ライブ!
解散後は柳ジョージのソロ活動として続けていく傍ら、解散した年に「THE WOOD」を結成しますが1983年にはあえなく解散。

メンバー
  • 柳ジョージ:ボーカル・ギター
  • 上綱克彦:ボーカル・キーボード リーダー 
  • 石井清登:ボーカル・ギター
  • ミッキー・ヤマモト:ボーカル・ベース
  • 四ツ田ヨシヒロ:ボーカル・ドラム
  • 鈴木明男:ボーカル・サックス・フルート 

50歳〜の人は誰しもが知っているような素敵なミュージシャンです。
現代の若者よ。
頼むから昔の邦楽も聴いてみて!
今の電子音楽も良いよ。けど楽器が基礎であった当時の音楽には命が宿っているんですよ。
おやじ臭いって言われちゃうのかなw

今回紹介する映像は「7th ASAKUSA NEW YAER ROCK FESTIVAL(1979-1980)@浅草国際劇場」で「雨に泣いている」です。
※「夜のヒットパレード」も入れておきますw